2018年10月18日
- 二見 淳郎さん
- 株式会社重松製作所
理事
船引事業所長 兼 船引第二製造部長
- 中井 悟さん
- 株式会社重松製作所
専務取締役
生産担当 兼 第一生産本部長
- 小野 研一さん
- 株式会社重松製作所
専務取締役
開発設計部長 兼 量産設計部長
1F構内の作業に欠かせないのが全面マスクをはじめとする各種のマスク。そのマスクを製造しているのが、今回紹介する重松製作所です。事故直後には、現在よりもはるかに多くのマスクが必要でした。自社の工場が地震の被害を受けつつも、懸命にマスクの増産を続けたときや、作業員の方のご意見等をふまえ全面マスクを改良したときのことを中心に、福島県田村市船引町にある重松製作所の船引事業所(工場)でお話をうかがいました。
地震で受けた被害を素早く復旧させ
直後からマスクの生産を10倍に増やした
みなさんは、どのようなお仕事をなさっているのですか。
須山さん:
普段は埼玉事業所で防じんマスクや防毒マスクなどの開発を行っています。マスクを設計して形にするのが仕事で、私を含めて22人が取り組んでいます。そのほかに、同じような開発の仕事として、素材の研究をしている人たちも十数人ほどいます。
二見さん:
この船引事業所の所長ですが、マスクの製造部長も兼任しています。1990年に船引事業所・第一工場ができたときに係長として着任しました。2007年に第二工場ができて、事業所長を務めています。
中井さん:
船引事業所と埼玉事業所の生産や物流部門などを担当しています。また、兵庫県の姫路市にも生産部門があり、その3カ所を見てまわるのが私の主な仕事です。
ところで、震災直後はどのような状態だったのですか。
二見さん:
実は、この工場付近も震度6弱の揺れがあって、斜面が崩れたり地割れが起きたりしました。その直後、1Fの事故の映像をテレビで見て「これは大変なことになった」と感じました。そして、東京電力から「とにかくたくさんの全面マスクをつくってほしい」という連絡があった旨、本社からの情報が入ってきました。
ところが、私たちの工場も、倉庫や設備の一部が壊れてしまい、マスクの資材を作業場に自動で運ぶ仕組みが使えなくなっていたのです。そこで、工場を建設した会社にお願いし、横浜から深夜一般道を走って来てもらい、なんとか震災から3日後にはマスクの生産を始めることができるようになりました。
中井さん:
私たちの会社は、それまでも原子力発電所の定期点検用などにマスクを納入していました。ですから、大きな地震が起きたことで点検の必要があるだろうから、マスクの注文が増えることは想像していました。しかし、まさかあれほどの大変な事故になるとは思いませんでした。
それまで、全面マスクは月に2000個から3000個を生産していましたが、1Fの事故後から一気に8倍から10倍に増え、最大で3万7000個を生産した月もあります。
「マスクをつくらなければ日本が駄目になる」
そんな気持ちでみんなが一致団結した
増産にあたっては、ご苦労が多かったと思います。
二見さん:
もう、来る日も来る日もフル回転でした。土曜も日曜も関係なく、毎日24時間3交替制で作業にあたりました。船引事業所の工場で働く社員は70人近くいたのですが、それだけでは足りません。臨時で働いてもらえる方を募集したところ、避難所にいる方や、以前2Fで働いていたという方などを含めて、70人以上の方に集まっていただけました。
中井さん:
1Fの事故の映像を見て、「これは国難だ!」と感じました。一刻も早く、事故を収束させなければなりませんが、そのためには私たちのマスクがどうしても必要です。そういう思いで、もう無我夢中でつくっていたような状態です。そのころの田村市は夜になると真っ暗でしたが、市役所と私たちの工場だけが、深夜でもこうこうと明かりがともっていました。
そんな大変な仕事を、どうやってやり遂げることができたのでしょうか。
二見さん:
マスクの出来は、1Fで働く作業員の方々の命にかかわることですから、品質の点ではおろそかにできません。臨時で働く方々には、ベテランの社員がコーチとしてついて、マスクづくりを丁寧に教えました。とはいえ、社員は自分自身でも多数のマスクをつくる必要があり、また、慣れない人への指導ということからかなりのストレスがかかったようです。
そこで、朝礼も回数を増やして行い、「我々がマスクをつくらなければ、福島県も日本も駄目になってしまう。大変だけど、がんばろう」とみんなを元気づけたことを覚えています。私自身も、郡山市内の家に帰らず、しばらくはここで寝泊まりしていました。
震災直後は、被害を受けたりして60%前後の出勤率でしたが、震災から10日後になると約90%の出勤率になりました。産休と育休の人以外、ほとんど全員が仕事に戻ってきてくれたのです。
小野さん:
まわりの方々や企業の協力にも助けられました。例えば、マスクを増産するために金型を早く正確につくらなくてはならないのですが、国内の協力会社のみならず、日本の状況に心を痛めた海外の企業も、全面的に協力してくれました。
高速道路を通れるようになったことも大きかったですね。当時、高速道路を通れるのは緊急車両だけでしたが、マスク増産も緊急性があるということで、埼玉県にいる当社の業務部長が警察にかけあいました。これによって、関東地方で集めた資材を福島の工場に運び込んだり、できた製品を運び出したりすることが、スムーズにできるようになりました。
二見さん:
毎日休まず、資材を運送してくれた運転手さんにも、大変お世話になりました。この船引事業所は避難区域ではありませんでしたが、避難区域に比較的近いということで、トラックの運転手さんたちの多くは、郡山市に近い三春町までしか来てくれなかったのです。そんな中で、当社の社員でもないのに毎日来てくれた運転手さんがいたのです。その運転手さんには、後日、会社から感謝状を送ってお礼の会を催しました。
1Fで働く作業員の声を取り入れて
安全・快適作業が進められる全面マスクを開発
現在は、どのようなマスクをつくっているのですか。
小野さん:
実際に1Fで当社の全面マスクを使っている方々のご意見を取り入れて、新しい全面マスクを開発しました。これまでの全面マスクの欠点を改良し、視界が広く、声が届きやすくなり、傷つきにくく、内側がくもりにくいマスクが、2016年6月にできあがりました。
通常ならば、新製品の開発には2、3年かかるのですが、ぜひ急いでつくってほしいというご要望があり、1年で完成させました。人づてですが、大変使いやすくなったという評判を聞いて、ほっとするとともに苦労が報われたと感じています。この全面マスクを使うことで、少しでも安全に楽に作業できれば、これほどうれしいことはありません。
ところで、みなさんは休日にどんなことをしていますか。
二見さん:
震災直後は趣味どころではありませんでしたが、ようやく仕事も落ち着いてきたので、若いころに楽しんでいたオートバイにまた乗るようになりました。休みの日には、900ccのオートバイに乗って、あちこちをツーリングしています。この近くだと、磐梯吾妻スカイラインは眺めがよくていいですね。
小野さん:
偶然ですが、私もツーリングです。最近になって娘が自動二輪の免許をとったので、私もがんばって大型二輪の免許をとり、1200ccのオートバイを買いました。週末は、娘と二人であちこち出かけています。
中井さん:
私は、埼玉県の自宅にある家庭菜園で、野良仕事をするのが趣味といえば趣味です。トマト、キュウリ、ナス、大根、レタスなどの野菜をつくっています。楽しくて次から次へと育てるもので、家族からつくりすぎで食べきれないと、よくしかられます。
二見 淳郎さん
株式会社重松製作所
理事
中井 悟さん
株式会社重松製作所
専務取締役
小野 研一さん
株式会社重松製作所
生産担当 兼
第一生産本部長
廃炉作業は、現在の日本で最も難しい任務の一つだと思います。私たちがつくったマスクで、ぜひ安全に効率的に作業をしてください。
- プロフィール
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二見 淳郎さん
1976年入社。東京生まれ。現在は埼玉県に自宅があり、郡山市内に単身赴任して船引事業所に通っている。オートバイが趣味で、お酒はウィスキーと焼酎が好み。
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中井 悟さん
1976年入社で、二見さんと同期。東京生まれ。郡山に単身赴任しているが、自宅のある埼玉県の事業所と船引事業所とを行ったり来たりしている。福島県のおいしい日本酒が大好き。
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小野 研一さん
1983年入社。群馬県出身。普段は埼玉県さいたま市に勤務している。週末に娘とオートバイでツーリングするのが楽しみ。お酒はワインが好き。
- お勤め先
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株式会社重松製作所
1917年に創業。防じんマスク、防毒マスクなどの保護具を製造する歴史ある専門メーカー。本社は東京にあり、福島県田村市や埼玉県さいたま市に事業所や研究所などがある。